画像引用元: www.westatic.com黒田長経
推定知名度19.04%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女
黒田 長経(くろだ ながつね、寛保2年6月9日(1742年7月10日) - 宝暦13年8月26日(1763年10月3日))は、筑前国福岡藩の第6代藩主・黒田継高の四男。幼名は平八。母は側室三隅氏。同母兄に宮内、同母姉が1人妹が2人(立花鑑通室、某、治之養女)存在する。寛保2年6月9日(1742年7月10日)、福岡城三の丸の新宅にて誕生。七夜に父継高より平八と命名される。宝暦3年(1753年)8月21日元服して長経と名乗る。宝暦9年2月には福岡城二の丸に完成した居室に継高が訪れている。このように世子の控えの立場にあり、兄・重政が宝暦12年(1762年)に早世したため継高によって黒田家の世子に立てられ、松平左近将監に相続願の打診が行われ内諾を得て宝暦13年参勤、将軍に拝謁し黒田家世子として認められる予定であった。しかし手続きが完了する前に国許で浮腫にかかって出府できなくなり、回復することなく8月26日亡くなった。追謚して霊覚院卓然紹立と称された。長経の死をもって継高の男子は全ていなくなり、黒田家は養子による相続を行わねばならなくなった。当初継高は外孫の池田長泰(のちの相良長寛)を後継者として考えていたが、幕府の意向により一橋徳川家より養子を迎えることとなる。これが治之である。治之の正室として重政の娘が婚約し、女系を通しての黒田家の血統の保存が図られたが、婚姻することなく娘が早世、初代藩主・長政以来の黒田本家の血統は途絶えることとなった。なかつねCategory:江戸時代の大名の嫡男Category:福岡藩の人物Category:1742年生Category:1763年没
過去の推移
18.7406
18.9907
19.1408
19.1209
19.1210
19.0511
19.0512
19.0913
19.114
19.115
19.0416
