画像引用元: upload.wikimedia.org飯尾連竜
飯尾 連竜(いいお つらたつ)/ 飯尾 致実(いいお のりざね)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国曳馬城主。駿河飯尾氏の出自は三善氏といわれる。元々室町幕府の奉行衆であり、飯尾長連の代に駿河国に下向、以来代々今川氏家臣として仕えた。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いにおいて、織田信長を相手にした駿河今川氏は当主の今川義元を討取られると同時に、連竜の父で長連の孫の乗連を初めとする遠江の今川氏配下領主や国人領主達にも数多の戦死者を出した。当主戦死による混乱も相まって、今川氏は遠江国に対する支配力を低下させたため、遠江国は混乱状態になった。今川氏に仕える者、織田氏に寝返る者、三河国で今川氏からの独立(再独立)を計る松平家康(徳川家康)に同調する者など、国内は混乱した。永禄5年(1562年)、連竜が松平家康を通じて織田・松平方に通じたことを知った今川氏新当主の今川氏真は曳馬城を攻めた。「この時氏真が大いに怒り糾明するために曳馬城を攻めたが利あらずして退いた。」と、『遠江』『武家事紀』は記している。『改正三河後風土記』では連竜が家康に内通し、病と称して曳馬城に引き返してる間、新井白須賀邊の駅舎を放火したという疑いに今川氏真は大いに憤り、その真偽を問いただす為に新野親矩とその弟式部之規を大将とした三千人の兵を曳馬城へ差し向け、有無を言わさずにいきなり攻撃したと記されている。これは今川氏の遠江国支配保持のための見せしめ、いわば強硬な武力示威行為と考えられる。しかし今川方は曳馬城を落すことができず、連竜と和睦し一旦退いた。またこの戦いで寄せ手の氏真方の大将の新野親矩や三浦正俊、中野直由ら、飯尾氏の側でも重臣等が戦死した、ともされている。『改正三河後風土記』ではその時連竜は少しも恐れず矢炮を飛ばし防戦し、寄せ手の大将である新野親矩達を撃退することに成功したが、氏真はますます怒り、朝比奈泰能、瀬名親隆とその子瀬名氏範、朝比奈秀盛等大勢を付き添え囲み昼も夜も攻めたが城は落ちなかった。連竜は敵陣に対して矢文で「某讒者の為に無実の罪を蒙ったために遺恨はなく、一時の急難をのぞかんがために防戦したためまったく異心はなく早く讒者の虚実と糾明して恩免を蒙りすみずみまで二心なく忠勤する」という起請文を出した。今川方の寄せ手はそれを受け取り、引き返した、と記述されている。『井伊家伝記』では曳馬城の城主だった井伊直平の家老だったと記されており、天
