靜嚴(じょうごん、寛元元年(1243年) - 永仁7年1月7日 (旧暦)|正月7日(1299年2月8日))は、鎌倉時代の真言宗の僧。摂政関白従一位左大臣の一条実経の子。母は大納言・粟田口忠良の子、良性|良性法印の娘。殿大僧正と号す。厳舜について出家し、勝尊、親杲に灌頂を受ける。醍醐寺座主や随心院|随心院門跡、東寺長者となる。法務 (仏教)|法務僧正|大僧正。永仁7年(1299年)に57歳で入滅。
靜嚴(じょうごん、寛元元年(1243年) - 永仁7年1月7日 (旧暦)|正月7日(1299年2月8日))は、鎌倉時代の真言宗の僧。摂政関白従一位左大臣の一条実経の子。母は大納言・粟田口忠良の子、良性|良性法印の娘。殿大僧正と号す。厳舜について出家し、勝尊、親杲に灌頂を受ける。醍醐寺座主や随心院|随心院門跡、東寺長者となる。法務 (仏教)|法務僧正|大僧正。永仁7年(1299年)......