長野 賢忠(ながの けんちゅう、生没年不詳)は戦国時代前期の上野国の武将。上野長野氏の一族。賢忠は法名(「橋林寺殿節菴賢忠大禅定門」)であり、実名は不詳。永正3年(1506年)に賢忠が父とみられる聖仲(顕業)の菩提寺・橋林寺に寺領を寄進している。家督継承のこの時期に既に法名である「賢忠」を名乗っている事から、黒田基樹は既に30歳を超えていたと推定している。大永4年(1524年)に箕輪城の長野方業が長野顕景を攻めた際に同調した長野宮内大輔は賢忠のこととみられている(黒田説では方業及び房業は賢忠の兄弟とする)。天文10年(1541年)には、深谷上杉憲賢・那波宗......
長野 賢忠(ながの けんちゅう、生没年不詳)は戦国時代前期の上野国の武将。上野長野氏の一族。賢忠は法名(「橋林寺殿節菴賢忠大禅定門」)であり、実名は不詳。永正3年(1506年)に賢忠が父とみられる聖仲(顕業)の菩提寺・橋林寺に寺領を寄進している。家督継承のこの時期に既に法名である「賢忠」を名乗っている事から、黒田基樹は既に30歳を超えていたと推定している。大永4年(1524年)に......