鈴鹿 連胤(すずか つらたね、寛政7年10月29日(1795年12月10日) - 明治3年11月20日(1871年1月10日))は、江戸時代末期の神官、国学者である。幼名は幸松。号は誠斎、尚褧舎。謚号は成功(いさお)霊神。京都吉田神社(京都市左京区)の社家に生まれる。父は隆芳、母は左京亮立入(藤原)経康の女。鈴鹿家は本姓中臣氏(中臣金連の男、吉子連の後裔と伝える)、代々神主吉田家の家老職を務める家であった。8才で父隆芳を亡くすと、同族の鈴鹿通益を後見として母と祖母に養われた。文化元年(1804年)、10才で初めて神祇権少祐に任官して以来神祇官の役職を歴任し......
鈴鹿 連胤(すずか つらたね、寛政7年10月29日(1795年12月10日) - 明治3年11月20日(1871年1月10日))は、江戸時代末期の神官、国学者である。幼名は幸松。号は誠斎、尚褧舎。謚号は成功(いさお)霊神。京都吉田神社(京都市左京区)の社家に生まれる。父は隆芳、母は左京亮立入(藤原)経康の女。鈴鹿家は本姓中臣氏(中臣金連の男、吉子連の後裔と伝える)、代々神主吉田家......