野中 兼山(のなか けんざん、元和元年(1615年) - 寛文3年12月20日(1664年1月18日))は、江戸時代初期の土佐藩家老。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いたことから領民の不興を買い失脚、一族が絶えるまで家族全員幽閉された。諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。南学の儒者でもあり、灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励など活動は多岐にわたる。
野中 兼山(のなか けんざん、元和元年(1615年) - 寛文3年12月20日(1664年1月18日))は、江戸時代初期の土佐藩家老。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いたことから領民の不興を買い失脚、一族が絶えるまで家族全員幽閉された。諱は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼......