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趙広漢

推定知名度0.31%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

趙 広漢(ちょう こうかん、? - 紀元前64年)は、前漢の人。字は子都。涿郡蟸吾の人。若くして郡の吏、州の従事となり、清廉潔白で優秀であったことから有名になった。秀才に推挙されて平準令となり、孝廉に推挙され陽翟令になった。成績が特に良かったことから京輔都尉となり、守京兆尹(京兆尹見習)となった。昭帝が死亡したが、その皇帝陵造営の役人が汚職をしていた際、趙広漢はまず先に警告を発し、それでも改まらなかったため逮捕した。彼は実力者とつながっていたため助命嘆願が相次いだが趙広漢は聞かず、一族や賓客らは実力で強奪しようとしたが、趙広漢は計画を事前に察知し、「そんなことをすれば一族が滅びるであろう」と警告したため、その役人の処刑の際には近づく者はいなかった。都はこのことを称賛した。霍光らにより昌邑王が皇帝に擁立され、廃位の後に宣帝が擁立された際、趙広漢もその議に参加し、その功績で関内侯を賜った。潁川太守に遷ると、着任早々に勢力があり、賓客が盗賊行為を行うなど勝手気ままにふるまい太守も止められなかった一族の首魁を誅殺し、郡内を震え上がらせた。潁川では有力な豪族同士が通婚し、吏も癒着していた。そこで趙広漢は有力な豪族同士を仲違いさせるように仕向け、また吏や民を自分の耳目に使った。郡内の風俗は改まり、盗賊は起こらず、起こってもすぐ捕まえられるようになった。その威名は全国に知れ渡り、匈奴でさえも噂された。本始2年(紀元前72年)、漢が五人の将軍を派遣して匈奴を攻めた際、趙広漢も従軍し、蒲類将軍趙充国の指揮下に入った。帰ると再度守京兆尹となり、1年して京兆尹に正式に任命された。趙広漢は聡明で、部下の能力をすべて把握していた。また柔和に人に接し、良い事があれば部下の功績であると言った。そのため吏はみな彼のために危険も顧みず働こうとした。背く者がいればまず先に教え諭し、それでも改まらない者を容赦なく逮捕、断罪した。また直接尋問せずに話を聞き出す術に長け、誰も及ぶ者がなかった。趙広漢は長安の游徼(見回りの小役人)の秩禄を上げてやったため、游徼は従来より自重するようになり、むやみに法を曲げて人を勾留するようなことがなくなった。京兆尹の政治は浄化され、民や吏は褒め称えた。長老も漢の世になって以来京兆尹で彼に及ぶ者は居ないと評した。法を犯した者は京兆尹の管内を脱して右扶風、左馮翊に逃げるようになり、趙広漢は「私の統治を邪魔する者はいつも二輔(右

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