豊田 頼英(とよだ らいえい、応永10年(1403年) - 延徳2年8月23日(1490年9月16日))は、室町時代の武将。大和の国人で、興福寺衆徒。覚英、憲英、慶英、英寛の父。大和豊田城主。下野公と称した。豊田氏は山辺郡を拠点とした一族で、大和永享の乱で井戸氏と対立した豊田中坊は惣領とされる。頼英は分家の豊岡氏出身で豊田中坊が没落した後に台頭したとされるが、はっきりしていない。嘉吉3年(1443年)の摂津河上五ヶ関務代官職を巡る大乗院門跡経覚と成身院光宣、筒井順永兄弟の争いでは経覚に与して光宣を追い落とし、古市胤仙・小泉重弘と共に管領畠山持国から雑務権断......
豊田 頼英(とよだ らいえい、応永10年(1403年) - 延徳2年8月23日(1490年9月16日))は、室町時代の武将。大和の国人で、興福寺衆徒。覚英、憲英、慶英、英寛の父。大和豊田城主。下野公と称した。豊田氏は山辺郡を拠点とした一族で、大和永享の乱で井戸氏と対立した豊田中坊は惣領とされる。頼英は分家の豊岡氏出身で豊田中坊が没落した後に台頭したとされるが、はっきりしていない。......