豊田 友直(とよだ ともなお、文化2年(1805年) - 明治3年(1870年)は、江戸時代後期の旗本。久須美祐明の3男。祐雋、祐義の弟、祐利の兄。子に杉浦梅潭正室、友文、杉浦梅潭継室、久須美祐温室。通称は藤之進。小普請組の豊田藤太郎の養子となった。文化14年(1817年)、豊田家の家督を継いで小普請組へ入り、しばらく評定所に勤務していたが、天保10年(1839年)、飛騨郡代に任命され、飛騨へ赴任した。在任中は飢餓対策、物価対策に追われ、備蓄貯蓄制度や物価引下げ、飛騨御林山の植林奨励、人足寄場の構想に努めた。天保11年(1840年)に尾張から陶工戸田柳造を......
豊田 友直(とよだ ともなお、文化2年(1805年) - 明治3年(1870年)は、江戸時代後期の旗本。久須美祐明の3男。祐雋、祐義の弟、祐利の兄。子に杉浦梅潭正室、友文、杉浦梅潭継室、久須美祐温室。通称は藤之進。小普請組の豊田藤太郎の養子となった。文化14年(1817年)、豊田家の家督を継いで小普請組へ入り、しばらく評定所に勤務していたが、天保10年(1839年)、飛騨郡代に任......