西國坊 明學(さいこくぼう めいがく、1849年 - 没年不詳・明治40年代末頃か?)は九州出身の盲目の僧の上方で活躍した音曲師。本名は長野明學。西国坊明学、西國坊明学、西国坊明學とも表記する。福岡出身で明治初年頃から大阪に来て坐摩社の前で尺八の指南をしていたという、ある人物の建言で寄席に出るようになり高座には十六人芸(十八人芸とも)称して寄席に出た。芸は琵琶で平家物語を語ったり、横笛での曲吹き、浄瑠璃の弾き語り、即席の都々逸などを演じあと得意の推量節を歌うのが明學であった。子供から大人まで人気があり落語全盛期の時代にあって桂派で色物として確固たる地位を築......
西國坊 明學(さいこくぼう めいがく、1849年 - 没年不詳・明治40年代末頃か?)は九州出身の盲目の僧の上方で活躍した音曲師。本名は長野明學。西国坊明学、西國坊明学、西国坊明學とも表記する。福岡出身で明治初年頃から大阪に来て坐摩社の前で尺八の指南をしていたという、ある人物の建言で寄席に出るようになり高座には十六人芸(十八人芸とも)称して寄席に出た。芸は琵琶で平家物語を語ったり......