藤原 邦通(ふじわら の くにみち、生没年未詳)は鎌倉時代初期の役人・官吏。源頼朝の初期の右筆。大和判官代、藤判官代邦通と書かれることが多い。多才で有職故実に通じ、文筆にも長じ、絵や占いその他百般の才能があったという。『吾妻鏡』での初出は頼朝の旗挙げの直前の治承4年(1180年)6月22日条である。8月4日条には、その頃京を離れて「遊歴」していたが、安達盛長の推挙で頼朝に仕えたとある。頼朝の旗挙げの初戦である山木兼隆襲撃の直前に、酒宴にかこつけて兼隆の館に留まり、周囲の地形を絵図にして持ち帰り、それを基に頼朝達が作戦を練った。頼朝時代の初期において右筆、公......
藤原 邦通(ふじわら の くにみち、生没年未詳)は鎌倉時代初期の役人・官吏。源頼朝の初期の右筆。大和判官代、藤判官代邦通と書かれることが多い。多才で有職故実に通じ、文筆にも長じ、絵や占いその他百般の才能があったという。『吾妻鏡』での初出は頼朝の旗挙げの直前の治承4年(1180年)6月22日条である。8月4日条には、その頃京を離れて「遊歴」していたが、安達盛長の推挙で頼朝に仕えたと......