藤原行長の画像画像引用元: upload.wikimedia.org

藤原行長

推定知名度0.85%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

藤原 行長(ふじわら の ゆきなが、生没年不詳)は鎌倉時代の公家。藤原北家勧修寺流、藤原行隆の子。母は典薬助藤原行兼の娘(美福門院(藤原得子)女房、のち八条院(暲子内親王)女房「越前」)。中山 行長とも言う。官位は従五位下、下野守(しもつけのかみ)、蔵人(くろうど)。関白九条兼実の家司(けいし)でもあった。元久2年(1205年)の『元久詩歌合』に出詠するなど、漢詩文にすぐれていた。吉田兼好が「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり」(徒然草226段)と記した「信濃前司行長」とされている。しかし行長は信濃守となっておらず、行長を平家物語の作者とする説は、「下野前司行長」の誤りとする。また、父行隆が、法然と関係が深い重源が勧進した、東大寺盧舎那仏像再建の造仏長官に任ぜられており、そして仕えていた九条兼実が、法然に帰依しており、さらに異母弟信空が法然の弟子であった。このような関係性から『平家物語』に底流する情緒的な浄土思想を書いたのではないか、とも主張されている。

過去の推移