藤原 文元(ふじわら の ふみもと、生年不詳 - 天慶4年10月19日(941年11月10日))は平安時代中期、備前国に土着した海賊。天慶2年12月(940年1月)に備前介・藤原子高、播磨介・島田惟幹を襲撃した。藤原純友との共謀であり、これが藤原純友の乱の発端になった。なお、朝廷は翌天慶3年(940年)に純友に従五位下に叙すことで、乱を抑制しようとした。その際に文元にも官職(備前介)が与えられたという。天台座主・義海は同年8月には石清水八幡宮以下の十二社に文元らの討伐を祈らせている(『日本紀略』)。天慶4年(941年)9月19日、弟の藤原文用、三善文公と共......
藤原 文元(ふじわら の ふみもと、生年不詳 - 天慶4年10月19日(941年11月10日))は平安時代中期、備前国に土着した海賊。天慶2年12月(940年1月)に備前介・藤原子高、播磨介・島田惟幹を襲撃した。藤原純友との共謀であり、これが藤原純友の乱の発端になった。なお、朝廷は翌天慶3年(940年)に純友に従五位下に叙すことで、乱を抑制しようとした。その際に文元にも官職(備前......