薛調(せつちょう、太和4年(基督教暦830年。下皆效此) - 咸通13年(872年))は晩唐の進士。河中宝鼎(ほうてい。現中華人民共和国山西省万栄県)の人。憲宗朝の御史大夫で河東郡公に封じられた苹(へい)の孫で婺州の刺史膺(よう)の男。宣宗の大中8年(854年)頃の進士登第と推定され、同期登第者である李瓚(りさん)(の男)と並称され、俊爽ではあるが猜疑心の強かった瓚が「剣」と呼ばれたのに対して、調は姿貌が美しく性格も寛恕であった為に「生菩薩」と呼ばれたといい、その人柄から劉允章(りゅういんしょう)に好まれ、また、翰林学士となった際にはがその容姿を賞して懿宗......
薛調(せつちょう、太和4年(基督教暦830年。下皆效此) - 咸通13年(872年))は晩唐の進士。河中宝鼎(ほうてい。現中華人民共和国山西省万栄県)の人。憲宗朝の御史大夫で河東郡公に封じられた苹(へい)の孫で婺州の刺史膺(よう)の男。宣宗の大中8年(854年)頃の進士登第と推定され、同期登第者である李瓚(りさん)(の男)と並称され、俊爽ではあるが猜疑心の強かった瓚が「剣」と呼ば......