葉室 定嗣(はむろ さだつぐ、承元2年(1208年) - 文永9年6月26日(1272年7月22日))は、鎌倉時代中期の公卿。藤原北家勧修寺流、葉室光親の次男。母は吉田定経の娘。初名を光嗣、次いで高嗣、定嗣と改名。建保2年(1214年)に叙爵。以後但馬、美濃などの国司や蔵人頭を歴任し、仁治3年(1242年)に従三位。宝治2年(1248年)には正三位、権中納言に昇る。後嵯峨上皇の院司として重用され、院と六波羅探題との間に立って両者の調整役を務めた。建長2年(1250年)に致仕。弘長年間(1261年-1263年)には出家し、法名を定然と称したとされる。その日記......
葉室 定嗣(はむろ さだつぐ、承元2年(1208年) - 文永9年6月26日(1272年7月22日))は、鎌倉時代中期の公卿。藤原北家勧修寺流、葉室光親の次男。母は吉田定経の娘。初名を光嗣、次いで高嗣、定嗣と改名。建保2年(1214年)に叙爵。以後但馬、美濃などの国司や蔵人頭を歴任し、仁治3年(1242年)に従三位。宝治2年(1248年)には正三位、権中納言に昇る。後嵯峨上皇の院......