菅谷 八郎右衛門(すがや はちろうえもん)は、下野烏山藩の家老。烏山藩の出身ではなく、三河刈谷藩の藩士の出身である。伯父の八郎右衛門が烏山藩士で、寛政5年(1793年)に伯父の養子となって家督を相続し、烏山藩の年寄格として180石を領した。烏山藩大久保家に仕え、大久保忠保の時代から二宮尊徳の報徳仕法を手本にして藩政改革を行なう。しかし報徳仕法には藩内で反対の声が強く、天保8年(1837年)に病気に倒れ、天保9年(1838年)7月からは重病に陥って藩政をとれなくなった。これを機に反対派が強くなって12月には隠居させられ、天保11年(1840年)には領外追放に......
菅谷 八郎右衛門(すがや はちろうえもん)は、下野烏山藩の家老。烏山藩の出身ではなく、三河刈谷藩の藩士の出身である。伯父の八郎右衛門が烏山藩士で、寛政5年(1793年)に伯父の養子となって家督を相続し、烏山藩の年寄格として180石を領した。烏山藩大久保家に仕え、大久保忠保の時代から二宮尊徳の報徳仕法を手本にして藩政改革を行なう。しかし報徳仕法には藩内で反対の声が強く、天保8年(1......