脇坂 安経(わきざか やすつね、? - 寛永9年4月4日(1632年5月22日))は、信濃飯田藩の世嗣。官位は従五位下淡路守。伊予大洲藩初代藩主・脇坂安治の五男。次兄で飯田藩初代藩主の脇坂安元の養子となった。寛永9年(1632年)、備中松山藩主・池田長幸は死を前にして、長男の長常と次男の長純(長教)とで領地を半分ずつ相続するよう遺言した。安経の三兄の美濃脇坂藩主・脇坂安信は長純に娘を嫁がせていたが、この内容に不満を持ち、同年4月4日に安経と共に長幸の下へ抗議に訪れた。この時、長幸の弟の池田長頼と口論になった末、安経は殺害され、安信も重傷を負った。2日後の4......
脇坂 安経(わきざか やすつね、? - 寛永9年4月4日(1632年5月22日))は、信濃飯田藩の世嗣。官位は従五位下淡路守。伊予大洲藩初代藩主・脇坂安治の五男。次兄で飯田藩初代藩主の脇坂安元の養子となった。寛永9年(1632年)、備中松山藩主・池田長幸は死を前にして、長男の長常と次男の長純(長教)とで領地を半分ずつ相続するよう遺言した。安経の三兄の美濃脇坂藩主・脇坂安信は長純に......