画像引用元: upload.wikimedia.org第三次イタリア戦争
第三次イタリア戦争、または四年戦争は、イタリア戦争の一部である。フランス王フランソワ1世とその同盟国ヴェネツィア共和国が神聖ローマ皇帝カール5世、イングランド王ヘンリー8世、教皇国家と戦い、最終的には敗北した。この戦争は、カール5世が1519年に神聖ローマ皇帝に選出されたことと、ローマ教皇レオ10世がマルティン・ルターに対抗するためにカール5世と同盟したことに起因する。1521年、フランス軍がナバラ王国とネーデルラントに侵攻したことで戦争が勃発。ピレネー山脈を越えて進軍してきたフランス軍はスペイン軍に撃退され、神聖ローマ帝国軍はフランス北部に逆侵攻したがそこで足止めされた。教皇、皇帝、そしてヘンリー8世はすぐさまに対フランス同盟を結成、イタリア半島での戦いを再開させたが、フランソワ1世とカール5世は主戦場をフランス北東部とみなしたため、イタリアでの戦いはほとんど重きをなさなかった。1522年4月27日ので皇帝軍と教皇軍がフランス軍に勝利したことで、フランスはロンバルディアから追い出された。戦場が再びフランス本土に移動した一方、ドージェが交代したためヴェネツィアは単独講和した。イングランドは1523年にフランスを攻撃、同年相続権争いでフランソワ1世を見限ったブルボン公シャルル3世がフランソワ1世を裏切り皇帝と同盟した。フランスは翌年ロンバルディアを再度侵攻したがまたもや失敗、ブルボン公にスペイン軍を率いてプロヴァンスに侵攻する機会を与えた。ここにきてフランソワ1世は親征を決行、1525年にミラノを攻撃した。しかし、パヴィアの戦いで大敗して捕虜になったことで戦争は終結を迎えた。フランスは講和を模索しなければならなかったが、フランソワはスペインで囚われていたため、彼の母ルイーズ・ド・サヴォワが外交を主導した。彼女はオスマン帝国のスレイマン1世の宮廷へ使節団を派遣、スレイマン1世に神聖ローマ帝国への最後通牒を出させた。これは後の両国間の同盟の素地となった。スレイマン1世はこの機会に乗じて1526年の夏にハンガリー王国を侵攻、モハーチの戦いでカール5世の同盟者ラヨシュ2世を戦死させた。こうした外交努力と背後からの一撃にもかかわらず、フランソワ1世はマドリード条約への署名を余儀なくされ、イタリア、フランドル、ブルゴーニュ公国を全て放棄した。しかし、フランソワ1世は解放されるや条約の履行を拒否して戦争を再開した。マドリード条約
