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竇武

推定知名度0.55%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

竇 武(とう ぶ、? - 168年)は、後漢末の人物。字は游平。扶風平陵(陝西省咸陽市)の人。安豊戴侯となった竇融の玄孫。父は定襄太守となった竇奉である。妹は竇琼英。竇武は若いころから学問と行いで名を立て、大澤中で教授し、時事に交わらず、関西地方(長安方面)で名を挙げた。延熹8年(165年)、長女のが桓帝の後宮に入って撰ばれて貴人となり、時を置かず皇后に立てられると、外戚となった竇武もその引き立てに与り、郎中へ、そして越騎校尉へと昇進し、槐里侯に封じられる。外戚ゆえに引き立てられ厚遇を受けていることを知る竇武は自らの行いを清め、一族にもそれを勤めさせ、礼としての賂さえ慎んで清名を得、名士を数多引き立てて、他者の嫉視に備えた。この頃党錮の禁が行われており李膺、杜密等が既に獄に繋がれていた。そのことについて竇武は永康元年(167年)に城門校尉、槐里侯であった自らの進退をかけて桓帝を諫め、党錮の禁を解くことに成功する。冬桓帝が崩御すると、解瀆亭侯の劉宏を擁立し帝位へ即けた。これが後の霊帝である。この功績によって竇武は大将軍に就くこととなり、更に改めて聞喜侯に封じられ、竇氏一族の主だったものも皆封侯の沙汰を受けた。大将軍として自らの政権を磐石にしたい竇武と、清流派の雄として賄賂の横行で政府が腐敗することを憎む陳蕃は、宦官排斥で目的が一致した。二人は清流派と目される才能ある人材を数多登用して要職に配置し、政府への掌握力を高めると、建寧元年(168年)五月の日食に因って竇太后に宦官を除きたい旨を伝える。宦官の尽くを廃するのは止めて欲しい、除くなら罪のあるものだけにすべきとの竇太后の返答を得ると、二人は当時省内にあって専権を誇った中常侍の管霸及び中常侍の蘇康等を誅戮した。この成功に気をよくした竇武・陳蕃は続いて曹節等を除きたいと竇太后に諮るが、とめどない要求を危惧する太后はこれを許さず、徒に時間が過ぎていった。建寧元年(168年)八月に入り、天文の変遷を見てとった劉瑜が竇太后と竇武・陳蕃のそれぞれに釘を刺し、これに促されるように竇武・陳蕃は宦官一掃を計画する。宦官尽くを族滅させるという計画は余りに急進的であった。その急進さゆえに一気呵成に成し遂げることを主張する陳蕃に対し竇武は万全を期すことにした。しかしそれが仇となり計画は長楽五官史の朱瑀へ漏れた。事は宦官側に知れ渡り、竇武・陳蕃は今上帝の廃立を図っていると濡れ衣を着せられ、

過去の推移