矢野 伊助(やの いすけ、生没年不詳)は、江戸時代中期の人物。赤穂藩浅野氏の足軽。足軽頭原元辰の配下に所属し、浅野家からは5石2人扶持を支給されていた。元禄14年(1701年)3月14日、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、赤穂藩浅野家は取り潰されてしまった。赤穂藩家老大石良雄は赤穂藩士たちに神文血判を求めたが、矢野は士分ではなく足軽身分であるため、大石に血判を出すことができなかった。しかし矢野は足軽ながら主君の無念を晴らすことを望み、のちに特別に同志として認めてもらった。赤穂城が開城された後も矢野は赤穂に滞在した。元禄15年(1702......
矢野 伊助(やの いすけ、生没年不詳)は、江戸時代中期の人物。赤穂藩浅野氏の足軽。足軽頭原元辰の配下に所属し、浅野家からは5石2人扶持を支給されていた。元禄14年(1701年)3月14日、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、赤穂藩浅野家は取り潰されてしまった。赤穂藩家老大石良雄は赤穂藩士たちに神文血判を求めたが、矢野は士分ではなく足軽身分であるため、大石に血判......