相木 昌朝(あいき まさとも)は、戦国時代の武将。信濃国佐久郡相木城主。「依田能登入道常善」は同一人物か。家系は清和源氏の流れを汲む依田氏の庶流。信濃長窪城主・大井貞隆の家老だったが(諸説あり)、天文12年(1543年)武田晴信が侵攻してくるとこれに内応し、主家を滅ぼし、以後は武田家に仕えた。晴信からの信頼も厚く、帰参直後から騎馬80騎持ちで田口城代に任じられた。永禄4年(1561年)川中島の戦いでは別働隊として参加している。戦後は善光寺平の治安維持を任せられた。善光寺横山城の麓に居館を構えたと伝えられ、その付近を通る旧北国街道には「相木通り」の名が残る。......
相木 昌朝(あいき まさとも)は、戦国時代の武将。信濃国佐久郡相木城主。「依田能登入道常善」は同一人物か。家系は清和源氏の流れを汲む依田氏の庶流。信濃長窪城主・大井貞隆の家老だったが(諸説あり)、天文12年(1543年)武田晴信が侵攻してくるとこれに内応し、主家を滅ぼし、以後は武田家に仕えた。晴信からの信頼も厚く、帰参直後から騎馬80騎持ちで田口城代に任じられた。永禄4年(156......