画像引用元: takunami.pro.tok2.com田中権内
田中 権内(たなか ごんない)は江戸時代中期、伊予大洲藩砥部郷(今日の愛媛県伊予郡砥部町)の大庄屋である。大洲藩主加藤泰興の時、御代役の功により扶持方五人分城の向新田他山林四箇所拝領 砥部の大巾着と異名された傑物である。宮内村に残る田中権内の墓碑には黙翁道渕覚位 正徳癸巳三年(1713)五十九歳と記されており、菩提寺の理正院過去帳にも正徳三癸巳歳「黙翁道淵信士」と記録がある。田中権内の家系南海道伊予国浮穴郡砥部荘料澤の[白滝城 http://www.h2.dion.ne.jp/~sumi123/]初代城主中村左近将監越智経孝にて代々居城 天正年間中村主殿守経房の代 四国征伐に依り開城す其後松山藩主加藤左馬介嘉明より、中村喜三衛門が十七ケ村ノ庄屋十六人 組み頭二十五人町 年寄一人 五人組四十八人の大庄屋拝命以来 職を世襲す 與右衛門尉ー庄右衛門ー田中文内(喜三右衛門)ー田中権内ー田中治兵衛ー田中喜三右衛門義貴(大庄屋-御普請方下奉行)ー新八郎ー喜右衛門 以下略す [中村庄右衛門の代、麻生庄屋田中義正養子参り、姓ヲ田中と改]大森彦七盛長供養塔正徳二年(1712)田中権内が先祖の主家にあたる大森彦七盛長を敬慕し庄屋田中 治兵衛及び五本松小助、川井忠左衛門の協力により供養塔を建立した。現在供養塔の塔身は三つに折れた物をセメントで繋いであり碑面には『長盛院殿大森彦七居士神儀』と刻まれていたと言うが現在は風化が激しく読めない。基台の文字も今は判読困難である。その碑文は見られることも少ないと思われるので、ここに記しておく。正面 長盛院殿大森彦七居士神儀台座左 伊予浮穴郡砥部庄茲田中氏権内居士蓋為先君故生敬慕之思勧群衆倶戮力台座裏 彦七昔日就于花園地建塔以奉供養請銘日 超出六合 武勇大振 忠功正信台座表 声莫不到 楠霊怪化 守剣悩身 終縁仏乗 自他離塵 麻山嗣法沙門 南堂光書台座右 施主砥部麻生田中氏権内 大庄屋田中治兵衛等 勧化五本松小助川井忠左衛門 正徳二年壬辰臘月吉旦造立焉 解説伊予浮穴郡砥部庄茲に田中氏権内居士蓋し先君たるの故に敬慕の思ひを生じ群衆に勧めて倶(ともに)に力をあわせ昔日花園の地に就きて以って供養し奉り銘を請う。六合にぬきんでし、武勇大いに振るう忠功信声到らざるなし楠霊の怪化剣を守りて身を悩ます終に仏裏に縁りて自他塵なる離る。(六合:東西・南北天地天下 正信:仏道にかないし正 声:名声 楠霊:楠正成の
