瀬川(せがわ)は、江戸時代、新吉原江戸町松葉屋半右衛門かたの遊女。同名者は、享保から天明まで、9人いた。そのなかで二代目、四代目、五代目が有名で、ことに宝暦の四代目瀬川は、名妓のほまれを一世にはせた。下総の農家の出身であったが、まれにみる才色双絶で、三味線、浄瑠璃、笛太鼓、舞踊などの遊芸はもちろん、茶の湯、和歌俳諧、碁、双六、蹴鞠の技にも達していたうえに、文徴明ふうの筆をよくし、易の造詣もあった。宝暦5年春、日頃親交のあった丁子屋の遊女雛鶴が落籍されて廓をでるとき、瀬川の送った文に「きみまいらせ候処、此里の火宅をけふしはなれられて、涼しき都へ御根引の花、め......
瀬川(せがわ)は、江戸時代、新吉原江戸町松葉屋半右衛門かたの遊女。同名者は、享保から天明まで、9人いた。そのなかで二代目、四代目、五代目が有名で、ことに宝暦の四代目瀬川は、名妓のほまれを一世にはせた。下総の農家の出身であったが、まれにみる才色双絶で、三味線、浄瑠璃、笛太鼓、舞踊などの遊芸はもちろん、茶の湯、和歌俳諧、碁、双六、蹴鞠の技にも達していたうえに、文徴明ふうの筆をよくし、......