洪茶丘(こう ちゃきゅう / こう さきゅう、ホン・タグ、1244年 - 1291年)は、高麗王朝や大元朝に仕えた軍人。唐城の出身。の第2子で、本名は俊奇、茶丘(チャクゥ)はモンゴル名で小字(幼名)。主君のフビライ(クビライ)・ハーンから常に小字で呼ばれていた。父・洪福源は高麗北部の国境を守る軍人であったが、モンゴルの攻撃を受けて1231年に降伏したうえ、モンゴルの高麗侵攻にも協力したという。このため、1258年に父は高麗の王族、永寧公の讒言を受けて、元にて処刑された。懸命の働き掛けで1261年に名誉回復されたが、これを恨んだ息子の洪茶丘はその後、祖国であ......
洪茶丘(こう ちゃきゅう / こう さきゅう、ホン・タグ、1244年 - 1291年)は、高麗王朝や大元朝に仕えた軍人。唐城の出身。の第2子で、本名は俊奇、茶丘(チャクゥ)はモンゴル名で小字(幼名)。主君のフビライ(クビライ)・ハーンから常に小字で呼ばれていた。父・洪福源は高麗北部の国境を守る軍人であったが、モンゴルの攻撃を受けて1231年に降伏したうえ、モンゴルの高麗侵攻にも協......