沈 曽植(しん そうしょく)は清末民初の官僚、歴史家。字は子培、号は巽斎または乙盦、晩年は寐叟と号した。1880年、進士となり、刑部主事、員外郎、郎中を歴任した。1895年、康有為や梁啓超とともに強学会を設立し、変法運動を推進した。1898年、母の死で離職し、湖広総督張之洞の招きで武昌の両湖書院で史学を講義した。1900年、義和団の乱が発生すると両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞が東南互保を結ぶのに奔走した。その後盛宣懐の招きで上海南洋公学(現在の上海交通大学)監督となり、江西省広信知府、安徽提学使、安徽布政使を歴任した。1910......
沈 曽植(しん そうしょく)は清末民初の官僚、歴史家。字は子培、号は巽斎または乙盦、晩年は寐叟と号した。1880年、進士となり、刑部主事、員外郎、郎中を歴任した。1895年、康有為や梁啓超とともに強学会を設立し、変法運動を推進した。1898年、母の死で離職し、湖広総督張之洞の招きで武昌の両湖書院で史学を講義した。1900年、義和団の乱が発生すると両広総督李鴻章・両江......