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森忠継

推定知名度18.63%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

森 忠継(もり ただつぐ、寛永14年(1637年) - 延宝2年2月28日(1674年4月4日))は、美作津山藩の世嗣。2代藩主・森長継の長男。母は池田長幸の娘・お鶴(大御前)。正室は小笠原長次の娘。子は森長成(三男)。官位は従四位下、美作守。嫡子として生まれ、正保2年(1645年)に将軍徳川家光に拝謁した。承応3年(1654年)叙任。4代将軍徳川家継の時に朝鮮使節の来朝があり、御用掛となった老中阿部忠秋は前例の記録が明暦大火で焼失してしまったため、江戸にいる諸藩の留守居役に対して当時の記録を書き出すように命じるが、忠継は、一時に多数集まることで混乱する事を案じて、藩毎にグループをつくってまとめるように指示した。忠継の許には12家の留守居役が集まり、これを組合として食事でもてなした。 以来、留守居役の間で組合が出来、寄合という連絡会が持たれるようになったという。この留守居役同士の組合は情報交換の場として幕末まで重要視された。家督を継ぐことなく延宝2年(1674年)に38歳で早世した。津山本源寺に葬られ、戒名は霊光院殿義海仁功大居士。森家全盛記によると、父の長継は忠継の死の床でこれを大変悔やみ、まだ幼い忠継の嫡男・万右衛門を将来の後継にすると伝えると、忠継は微笑んで目を閉じたという。忠継の没後、長継は万右衛門(後の長成)が成人するまでの条件で二男の長武に家督を譲り、自らは隠居した。たたつくCategory:江戸時代の大名の嫡男Category:津山藩の人物Category:1637年生Category:1674年没

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