林通顕(はやし みちあき 天保8年(1837年)-明治29年(1896年)10月10日)は、江戸時代末期の宇和島藩の武士、明治政府初期の官吏。通称は玖十郎、後に改名し得能亜斯登(とくのう あすと)と名乗る。伊達宗城の小姓から側近として取り立てられ、幕末は宇和島藩の京都留守居役として、勤皇の志士らとの連絡役を勤めた。慶応4年(1868年)、参与に任ぜられ、引き続き、戊辰戦争において東征大総督府下参謀に広沢真臣辞任後、西郷隆盛ともに任命される。参謀在任中、西郷不在の東征大総督有栖川宮熾仁親王の側にあって、会津藩及び松平容保の処分を問われた際に徹底殲滅の命を出し......
林通顕(はやし みちあき 天保8年(1837年)-明治29年(1896年)10月10日)は、江戸時代末期の宇和島藩の武士、明治政府初期の官吏。通称は玖十郎、後に改名し得能亜斯登(とくのう あすと)と名乗る。伊達宗城の小姓から側近として取り立てられ、幕末は宇和島藩の京都留守居役として、勤皇の志士らとの連絡役を勤めた。慶応4年(1868年)、参与に任ぜられ、引き続き、戊辰戦争において......