松平頼升(まつだいら よりのり、天保3年7月3日(1832年7月29日) - 明治5年9月23日(1872年10月25日))は、陸奥守山藩の第6代藩主。水戸支流頼元系松平家7代。守山藩5代藩主・松平頼誠の三男。母は松平頼説(常陸府中藩主)の娘。正室はなし。子は鏘(頼升の従弟、府中藩主・松平頼策の継室)。官位は従四位下、侍従、掃部頭、大学頭。文久2年(1862年)、父の死により家督を相続した。元治元年(1864年)の天狗党の乱発生の際には藩内でも動揺が広がったが、忠孝の道を誤らないように説得し、事を収めた。鳥羽・伏見の戦い後は勤王論に傾き、奥羽越列藩同盟には......
松平頼升(まつだいら よりのり、天保3年7月3日(1832年7月29日) - 明治5年9月23日(1872年10月25日))は、陸奥守山藩の第6代藩主。水戸支流頼元系松平家7代。守山藩5代藩主・松平頼誠の三男。母は松平頼説(常陸府中藩主)の娘。正室はなし。子は鏘(頼升の従弟、府中藩主・松平頼策の継室)。官位は従四位下、侍従、掃部頭、大学頭。文久2年(1862年)、父の死により家督......