松平 忠容(まつだいら ただやす、享保7年(1722年) - 安永10年1月23日(1781年2月15日)は、江戸中期の旗本。信濃上田藩主、伊賀守系藤井松平家松平忠周の五男。兄に松平忠愛、鉄次郎。弟に藤井忠陣、藤井忠弘がいる。通称善十郎。号笠翁。父の遺言により兄である上田藩主の松平忠愛より更級郡川中島(塩崎知行所)5,000石を分知され旗本寄合席となる。宝暦6年、徳川家治の小姓より西丸側役となった。跡は松平忠常が継いだ。
松平 忠容(まつだいら ただやす、享保7年(1722年) - 安永10年1月23日(1781年2月15日)は、江戸中期の旗本。信濃上田藩主、伊賀守系藤井松平家松平忠周の五男。兄に松平忠愛、鉄次郎。弟に藤井忠陣、藤井忠弘がいる。通称善十郎。号笠翁。父の遺言により兄である上田藩主の松平忠愛より更級郡川中島(塩崎知行所)5,000石を分知され旗本寄合席となる。宝暦6年、徳川家治の小姓よ......