画像引用元: upload.wikimedia.org松平光重
推定知名度0.19%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女
松平 光重(まつだいら みつしげ、? - 永正5年2月20日 (旧暦)|2月20日(1508年3月21日))は、戦国時代_(日本)|戦国時代の武将。岡崎市南部および大草(愛知県幸田町北部)を所領とした大草松平家初代当主。三河松平氏3代当主松平信光の五男。紀伊守を称した。文正年中(1466年 - 67年)岡崎旧領主の西郷氏#三河西郷氏|西郷氏と講和するとともに、西郷頼嗣(弾正左衛門)の娘を妻として、岡崎城(明大寺旧城)主となった。そのため安城松平家松平清康による岡崎城奪取(大永4年・1524年)までの大草松平家を岡崎松平家と呼ぶことがある。また山中(岡崎市舞木町周辺)の地に砦を構えて、これを詰の城とした。「新編岡崎市史2」は、現存する明応3年(1494年)の大樹寺あて発給文書から、彼が惣領家の支配を受けつつ、その元で活動する「奉行」としての地位にあったとしている(438項)。永正3年(1506年)、遠江国から斯波氏の勢力を駆逐した今川氏親らの三河国への侵入をうけ、矢作川以東の岡崎市中心部で安城家松平長親がこれと交戦したとの「三河物語」の記事がある(ただし年月を欠く)。しかし川をはさんで南に所領をもつ岡崎家の動向は明らかではなく、また永正5年に没した光重の死が今川軍との戦闘によるものなのかどうかも不明である。子は左馬允松平親貞 (大草松平家)|親貞(大草松平家2代)、弾正左衛門松平昌安|昌安(信貞・同3代)、左近将監「松平貞光|貞光」。蒲郡市形原の光忠寺はその開基を光重とし、また没年を永正5年2月9日 (旧暦)|2月9日として伝えるという(「新編岡崎市史」2巻439項)。法名は高月院光重栄金大禅定門。
過去の推移
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