東叡大王(とうえいだいおう)は、三山管領宮の敬称の一つ。江戸時代の漢文の教養のある人々の間で、漢文風にこう呼ばれた。「東叡山寛永寺におられる親王殿下」の意味である。江戸時代の宮門跡の一つ、上野東叡山寛永寺貫主は、日光日光山輪王寺門跡を兼務し、比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあり、全て宮家出身者または皇子が就任したため、三山管領宮とも称された。これは、敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川氏が朝敵とされるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の戦略だったとも考えられる。こうすれば、朝廷対朝敵の図式を、単なる......
東叡大王(とうえいだいおう)は、三山管領宮の敬称の一つ。江戸時代の漢文の教養のある人々の間で、漢文風にこう呼ばれた。「東叡山寛永寺におられる親王殿下」の意味である。江戸時代の宮門跡の一つ、上野東叡山寛永寺貫主は、日光日光山輪王寺門跡を兼務し、比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあり、全て宮家出身者または皇子が就任したため、三山管領宮とも称された。これは、敵対勢力が京都の天皇を擁......