李 冶(り や、1192年-1279年)は、金末から元初にかけての数学者。字は仁卿、号は敬斎。真定・欒城の出身。金の1230年に進士となり、河南・鈞州の知事となるが、1232年にモンゴル軍の侵入で鈞州が攻められると、脱出してそのまま隠退した。後、太原などに移り住むが、1251年に河北・元氏の封龍山に住みかを定め、以後は研究生活を送る。天元術を発展させて、幾何などの他の数学分野に応用した。1248年に『測円海鏡』12巻、1259年に『益古演段』3巻を著した他、元好問ら同じ隠遁文人らとの交流も多く、漢詩の作品も現存している。世祖(フビライ・ハーン)はたびたび彼......
李 冶(り や、1192年-1279年)は、金末から元初にかけての数学者。字は仁卿、号は敬斎。真定・欒城の出身。金の1230年に進士となり、河南・鈞州の知事となるが、1232年にモンゴル軍の侵入で鈞州が攻められると、脱出してそのまま隠退した。後、太原などに移り住むが、1251年に河北・元氏の封龍山に住みかを定め、以後は研究生活を送る。天元術を発展させて、幾何などの他の数学分野に応......