朝倉 景忠(あさくら かげただ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。朝倉将景の後裔で所領名から姓を「鳥羽」とした。通称は与三。父は朝倉景富(鳥羽景富)。永禄11年(1568年)5月17日、足利義昭が朝倉義景の館へ御成りをした際、伺候した朝倉同名衆19名(朝倉景紀の一族は不参)のうち、景忠の父景富は上位から7番目の家柄であった。織田氏によって朝倉宗家が滅亡すると、景忠は一向一揆に与し、天正3年(1575年)8月の織田信長の越前国再侵攻の際は、居城の鳥羽城(鯖江市)に600の兵で立て篭もったが、柴田勝家と丹羽長秀の軍勢により落城、景忠軍は壊......
朝倉 景忠(あさくら かげただ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。朝倉将景の後裔で所領名から姓を「鳥羽」とした。通称は与三。父は朝倉景富(鳥羽景富)。永禄11年(1568年)5月17日、足利義昭が朝倉義景の館へ御成りをした際、伺候した朝倉同名衆19名(朝倉景紀の一族は不参)のうち、景忠の父景富は上位から7番目の家柄であった。織田氏によって朝倉宗家が滅亡すると......