服部 中庸(はっとり なかつね、宝暦7年7月16日(1757年8月30日) - 文政7年3月14日(1824年4月13日))は江戸時代後期の国学者。後に渡辺に改姓し、また箕田と名乗る。本姓は源氏。通称は義内。号は水月、楓陰、茂翁。松坂詰和歌山藩士で、本居宣長に国学を学び、後に京都に移る。『古事記』の天地開闢を独自に解釈した『三大考』を著し、国学者の間で大論争を起こした。
服部 中庸(はっとり なかつね、宝暦7年7月16日(1757年8月30日) - 文政7年3月14日(1824年4月13日))は江戸時代後期の国学者。後に渡辺に改姓し、また箕田と名乗る。本姓は源氏。通称は義内。号は水月、楓陰、茂翁。松坂詰和歌山藩士で、本居宣長に国学を学び、後に京都に移る。『古事記』の天地開闢を独自に解釈した『三大考』を著し、国学者の間で大論争を起こした。