戴 叔倫(たい しゅくりん、732年 - 789年)は、中国・唐の詩人。字は幼公(ようこう)、または次公(じこう)。潤州金壇(江蘇省)の出身。安史の乱の兵乱を避けて波陽(江西省)に移住し、もっぱら学問に励み、蕭穎士の門下に入って随一と謳われた。貞元16年(800年)、進士に及第、杭州新城県(浙江省富陽)の令などを務め、真面目な勤務ぶりを認められて、撫州(江西省臨川)刺史・容州(広西壮族自治区容県)刺史兼本管経略使を歴任、善政を敷いて住民に慕われた。のちには辞職して道士となったが、間もなく死んだ。今、『戴叔倫』二巻が残っている。
戴 叔倫(たい しゅくりん、732年 - 789年)は、中国・唐の詩人。字は幼公(ようこう)、または次公(じこう)。潤州金壇(江蘇省)の出身。安史の乱の兵乱を避けて波陽(江西省)に移住し、もっぱら学問に励み、蕭穎士の門下に入って随一と謳われた。貞元16年(800年)、進士に及第、杭州新城県(浙江省富陽)の令などを務め、真面目な勤務ぶりを認められて、撫州(江西省臨川)刺史・容州(広......