志駄 義秀(しだ よしひで、永禄3年(1560年) - 寛永9年8月16日(1632年9月29日))は、戦国時代から江戸時代の初期にかけての武将。上杉氏の家臣。清和源氏義広流と称した志駄氏(志田氏とも)当主。別名は志田義分、幼名は寉千代、通称は源四郎。官名は修理亮。志駄義時の子。子は義繁、上泉秀富。孫は義友。上杉二十五将にも列挙されている。
志駄 義秀(しだ よしひで、永禄3年(1560年) - 寛永9年8月16日(1632年9月29日))は、戦国時代から江戸時代の初期にかけての武将。上杉氏の家臣。清和源氏義広流と称した志駄氏(志田氏とも)当主。別名は志田義分、幼名は寉千代、通称は源四郎。官名は修理亮。志駄義時の子。子は義繁、上泉秀富。孫は義友。上杉二十五将にも列挙されている。