平良 兼賢(たいら かねかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向国北原氏、日向伊東氏の家臣。三ツ山(現・宮崎県小林市)の小林郷地頭、後に三ツ山城主。史料には伴 兼賢とも散見されることから伴氏の子孫と思われるが、同じく伴氏を祖とする北原氏との縁戚関係は不明である。永禄元年(1558年)、主君・北原氏13代当主北原兼守が急死し家督問題が発生、伊東義祐がこれに介入してくると家中が二分される。兼賢は伊東方につき反対派と対立した。義祐が反対派の粛清を始めると兼賢もこれに関わり、兼守の叔父で飯野城主・北原兼孝父子を攻め滅ぼす。これにより、北原氏は義祐の推......
平良 兼賢(たいら かねかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。日向国北原氏、日向伊東氏の家臣。三ツ山(現・宮崎県小林市)の小林郷地頭、後に三ツ山城主。史料には伴 兼賢とも散見されることから伴氏の子孫と思われるが、同じく伴氏を祖とする北原氏との縁戚関係は不明である。永禄元年(1558年)、主君・北原氏13代当主北原兼守が急死し家督問題が発生、伊東義祐がこれに介入してくる......