工藤平助(くどう へいすけ、享保19年(1734年) - 寛政12年12月10日(1801年1月24日))は江戸時代中期の仙台藩江戸詰の藩医で経世論家。『赤蝦夷風説考』の筆者で、若き日の林子平に影響を与えた人物。医師としては工藤周庵(くどうしゅうあん)、還俗後は平助を名乗った。名(諱)は球卿(きゅうけい)、字は元琳(げんりん)。号は万光(ばんこう)で、万幸、晩幸とも表記する。
工藤平助(くどう へいすけ、享保19年(1734年) - 寛政12年12月10日(1801年1月24日))は江戸時代中期の仙台藩江戸詰の藩医で経世論家。『赤蝦夷風説考』の筆者で、若き日の林子平に影響を与えた人物。医師としては工藤周庵(くどうしゅうあん)、還俗後は平助を名乗った。名(諱)は球卿(きゅうけい)、字は元琳(げんりん)。号は万光(ばんこう)で、万幸、晩幸とも表記する。