島津 忠広(しまづ ただひろ)は、戦国時代の薩摩の武将。薩摩島津氏の分家、豊州家4代当主。父は3代当主の島津忠朝。子に島津賀久(養子)、島津忠親(養子、5代)。薩摩島津氏の分家である豊州家4代当主。3代当主、忠朝の子。天文7年(1538年)、忠朝が志布志へ移ると飫肥城を任せられる。病身のため政務は談合衆の日置美作守に一任していたといい、同9年(1540年)、日向伊東氏に反乱した勢力から援軍を要請されると、美作守の独断で出兵し、敗北している。その後も度々伊東氏の侵攻を受けるが、飫肥の本城を守り抜いた。島津宗家で15代当主島津貴久と前当主島津勝久の争いが起きる......
島津 忠広(しまづ ただひろ)は、戦国時代の薩摩の武将。薩摩島津氏の分家、豊州家4代当主。父は3代当主の島津忠朝。子に島津賀久(養子)、島津忠親(養子、5代)。薩摩島津氏の分家である豊州家4代当主。3代当主、忠朝の子。天文7年(1538年)、忠朝が志布志へ移ると飫肥城を任せられる。病身のため政務は談合衆の日置美作守に一任していたといい、同9年(1540年)、日向伊東氏に反乱した勢......