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島津元久

推定知名度1.23%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

島津 元久(しまづ もとひさ)は、南北朝時代 (日本)|南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。大隅国|大隅・日向国|日向・薩摩国|薩摩守護。島津氏第7代当主(奥州家 (島津氏)|奥州家第2代当主)。島津氏6代当主島津氏久の嫡男で、母は伊集院忠国の娘。島津久豊|久豊の兄。子に仲翁守邦。至徳 (日本)|至徳4年/元中4年(1387年)の父の死により奥州家を継ぐ。明徳4年(1393年)、従兄の総州家 (島津氏)|総州家当主島津伊久・島津守久|守久父子の仲介役をしたことで、伊久から薩摩守護職と島津氏家宝、更に領地の川辺郡 (鹿児島県)|川辺郡(硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島を含む)を譲られた。しかし応永7年(1400年)、元久は養子としていた伊久三男の久照と伊久一族である夫人とを突然に離縁し、更に薩摩に清水城 (薩摩国)|清水城を作ったことにより総州家と不仲になった(久照もしくは夫人所生の子が奥州家を継げば、一転して奥州家が総州家の影響下に置かれる可能性があったが、元久は関係を破棄することで伊久の思惑を絶ったとも解される )。新名一仁は本来奥州家の家督を継ぐべき元久の嫡男(後の仲翁守邦)が応永2年(1395年)に出家させられて元久の母方の叔父である石屋真梁の門弟とされて後に修行名目で関東に送られている不自然さと後に擁立された後継者が伊集院家出身の初犬千代丸(伊集院煕久|煕久)であったことを挙げて、伊集院氏による工作があった可能性を指摘している 。応永8年(1401年)、渋谷五氏のうち鶴田氏を除く四氏が伊久に味方したため、奥州家・総州家は絶縁状態になり、同年の鶴田合戦で元久側が敗れると鶴田氏と共に菱刈(現・鹿児島県伊佐市菱刈)に逃亡するなどしたが、伊集院頼久・伊作久義の支援で薩摩半島掌握に成功する 。また、樺山氏や新納氏も日向進出を認めて貰う代わりに元久支援に動いたが、異母弟の久豊とは、久豊が樺山氏や新納氏と敵対する伊東祐安 (室町時代)|伊東祐安の娘との婚姻を結んだことに反対したのをきっかけに関係が冷却化していった 。肥後の相良氏および幕府は伊久側についたが日明貿易|勘合貿易等への影響を恐れ、応永11年(1404年)に幕府の調停により両家は和睦した。同年6月29日、元久は大隅・日向守護となった。応永14年(1407年)に総州家の伊久が没すると、忠久は島津忠朝の平佐城を奪い、同じ時期に伊集院頼久も総州家の支配下にあった坊津

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