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岡剛介

推定知名度0.18%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

岡 剛介(おか ごうすけ、生年不詳 - 天正9年(1581年?)は、安土桃山時代の武将。宇喜多氏の家臣。清三郎。700石を知行。美男子だったという。永禄4年(1561年)、宇喜多直家の命を受け、備前国上道郡龍ノ口城主・穝所元常の家中に入り、元常を暗殺し帰還。この時点では「岡清三郎」との記述なので元服前の少年だったと思われる。永禄10年(1567年)の明善寺合戦や天正6年(1578年)の上月城合戦などに活躍する。天正7年(1579年)、宇喜多氏が毛利氏との関係を絶って織田氏に通じると、剛介の守る備中忍山城付近は敵対関係となった毛利氏と度々戦闘する事となる。そして天正9年(1581年)、ついに剛介と宇喜多信濃守の拠る忍山城に本格的に侵攻を開始した毛利輝元率いる毛利軍は、まず先鋒の吉川経言を送り剛介、信濃守の城方と戦闘となった。その後、宇喜多側の援軍が到着するとあくまで様子見であった経言は無理をせず、すぐに撤退を始めるが剛介らは城から打って出て、これを追撃する。しかし、それを知った経言が周辺に展開していた本隊に連絡をしそれらが攻め寄せた為に城方は後陣から崩れ、城内への撤退を余儀なくされる。勢い付いた経言は山下を焼き払い城を包囲。夜半に城に火を放ち外からも攻め寄せられた忍山城は混乱の内に敢えなく落城し、宇喜多信濃守も討ち取られるという大敗を喫した。剛介はこの戦で討ち取られたという明確な記述は無い。また天正10年(1582年)に行われた備中高松城攻めの時の「岡剛介の陣跡」が下足守の近辺に遺されていたりと謎も残る。

過去の推移