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山内盛豊

推定知名度0.17%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

山内 盛豊(やまうち もりとよ、永正7年(1510年) - 弘治 (日本)|弘治3年(1557年)(永禄2年(1559年)?))は、戦国時代 (日本)|戦国時代の武将。岩倉織田氏の家老。山内久豊の子。母は二宮俊宗の娘。山内十郎、山内一豊、山内康豊らの父。妻は法秀院 (山内一豊母)|法秀尼(梶原氏の娘?)。守豊とも。猪之助。但馬守。尾張国|尾張黒田城 (尾張国)|黒田城代。父の久豊は尾張羽栗郡黒田の郷侍で、尾張上四郡を支配した守護代の織田伊勢守家(岩倉織田氏)に仕えた。主君の岩倉城主織田信安により、尾張黒田城代を命じられた。弘治3年(1557年)、黒田城が夜討され、子の十郎とともに戦死したという資料があり、一方で、岩倉城 (尾張国)|岩倉城に逃れ、永禄2年(1559年)に、織田信長からの攻撃で岩倉城が落城し(浮野の戦い)、そのとき、戦死もしくは自害したともいわれる。戒名は法性院殿逸溪光秀大居士。墓所は愛知県一宮市木曽川町黒田の法蓮寺。子の一豊は諸将を転々としてのちに信長に仕え、豊臣氏、徳川氏の家臣となり、土佐国|土佐一国の藩主に立身した。

過去の推移