宇田川興斎(うだがわ こうさい、文政4年(1821年) - 明治20年(1887年))は翻訳家・英文学者、箕作阮甫らと共に幕末の対米露交渉時に翻訳業で活躍。美濃大垣の医師飯沼慾斎の息子(三男)で後に宇田川榕菴の養子。長男に宇田川準一がある。明治5年には、幕末から住んでいた津山より一家まとめて東京に出、蛎殻町三丁目にあった旧藩主松平家の邸内に住んだ。漢学の方でも日本有数の大家だった上に、書を能くし、和歌にも秀で、謡曲、囲碁といった趣味も、素人の域を抜いていたという。墓所は泰安寺(岡山県津山市)。
宇田川興斎(うだがわ こうさい、文政4年(1821年) - 明治20年(1887年))は翻訳家・英文学者、箕作阮甫らと共に幕末の対米露交渉時に翻訳業で活躍。美濃大垣の医師飯沼慾斎の息子(三男)で後に宇田川榕菴の養子。長男に宇田川準一がある。明治5年には、幕末から住んでいた津山より一家まとめて東京に出、蛎殻町三丁目にあった旧藩主松平家の邸内に住んだ。漢学の方でも日本有数の大家だった......