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喜多見勝忠

推定知名度0.32%15〜75歳男女
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喜多見勝忠(きたみ かつただ、永禄11年(1568年)- 寛永4年12月26日(1628年2月1日)は、戦国時代から江戸時代初期の武将、名族秩父氏の流れを汲む武蔵江戸氏の23代当主で喜多見氏初代。江戸勝忠(えど かつただ)とも。江戸幕府旗本。子は、正忠、重恒、重勝、娘(佐久間実勝室)、娘(伊丹勝政室)。勝忠は世田谷吉良氏の家臣として、古河公方、次いで後北条氏に属した。天正18年(1590年)の小田原征伐では後北条氏とともに小田原城に籠城するが敗れ、江戸に入府した徳川家康の家臣となり、喜多見村500石を安堵され旗本となり、姓を喜多見氏に改め、名も勝重に改めたとされる。その後、九戸政実の乱では岩手沢まで出征し、関ヶ原の戦い、大坂の陣に従軍した功績から元和元年(1615年)に近江国郡代となる。翌年堺奉行となり、後陽成院の葬礼を務めるなどの功績を挙げたことから、2000石にまで加増された。将軍徳川秀忠は南宗寺入来に際し、籠を勝忠の邸に枉げられ、勝忠は茶を献じて小袖および黄金を下賜されたとされる。寛永4年(1627年12月26日)、勝忠は堺で堺奉行在職中に病死。享年60。勝忠が堺奉行に奉じてから十年の間、牢獄に訴訟を起こした者は無く、街には奸人も無く、市民善政を謳歌したとされる。死後、家督は次男の喜多見重恒が継いだ。このとき、2000石の所領は1000石を重恒、残る1000石を三男喜多見重勝が継いだ。孫の重政は2万石の譜代大名となって喜多見藩を立藩、喜多見氏は藩主家となった。かつたたCategory:戦国武将Category:江戸幕府旗本Category:堺奉行Category:江戸幕府の郡代・代官Category:武蔵国の人物Category:1568年生Category:1628年没

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