問田 隆盛(といだ たかもり、生年未詳 - 弘治3年(1557年)3月)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。通称は十郎。大蔵少輔、備中守。子に安弘(やすひろ)、弘胤(ひろたね)。父親には諸説が多いが、大内政弘・大内義興の側近として仕えた問田弘胤の孫で、問田興之(おきゆき)の子だという。大内義隆に仕えて石見国守護代を務めたが、石見国は吉見氏や益田氏など国人の支配が強かったため、守護代としての力はさほどではなかった。天文20年(1551年)の陶隆房(のちの晴賢)の謀反では隆房に協力して義隆を自害に追い込み、後を継いだ大内義長に仕えた。弘治元年(1555年)10月......
問田 隆盛(といだ たかもり、生年未詳 - 弘治3年(1557年)3月)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。通称は十郎。大蔵少輔、備中守。子に安弘(やすひろ)、弘胤(ひろたね)。父親には諸説が多いが、大内政弘・大内義興の側近として仕えた問田弘胤の孫で、問田興之(おきゆき)の子だという。大内義隆に仕えて石見国守護代を務めたが、石見国は吉見氏や益田氏など国人の支配が強かったため、守護代......