和賀 忠親(わが ただちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。和賀氏は陸奥国和賀郡(現岩手県北上市周辺)を治めていた国人。忠親(父・和賀義忠とも)は天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣せず、名代だけを派遣したことから豊臣秀吉の怒りを買って改易された。その後、忠親は伊達政宗を頼って伊達領の胆沢郡に住した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、領地拡大の野望を燃やす政宗の密命を受けて、旧領を回復しようと岩崎一揆を起こした。政宗の援助を受けて和賀郡を治めていた南部利直の領地に攻め込み、花巻城(鳥屋ヶ崎城)を急襲したが、北信愛と利直の反撃を受けて......
和賀 忠親(わが ただちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。和賀氏は陸奥国和賀郡(現岩手県北上市周辺)を治めていた国人。忠親(父・和賀義忠とも)は天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣せず、名代だけを派遣したことから豊臣秀吉の怒りを買って改易された。その後、忠親は伊達政宗を頼って伊達領の胆沢郡に住した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、領地拡大の野望を燃やす......