画像引用元: rr.img.naver.jp周忠
推定知名度0.19%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女
周 忠(しゅう ちゅう、?- ? )は、中国後漢に仕えた将。字は嘉謀。揚州廬江郡舒県(安徽省舒城県)の人。高祖父は周栄。祖父は周興。父は周景。兄は周崇。子は周暉。従兄弟は周異、周尚。従甥は周瑜。周瑜の従父とも、又従兄弟とも言われる。周忠は,若くして列位に歴し,累遷して大司農となった。献帝の192年12月、光禄勲の周忠は、皇甫嵩に代わって、太尉・録尚書事となった。大尉のおり、尚書賈詡と共謀し朱儁を中央に招聘した。大司農の士孫瑞を尊敬しており、自分が三公に推挙された際には士孫瑞を代わりに推挙したという。193年6月、太尉の周忠は免職になった。その後、衛尉を勤めた。献帝の東帰にて、李傕と董承・楊奉との戦いの中で、李傕らは宮女たちを殺したり誘拐したりして、少府田芬、大司農張義、尚書令士孫瑞が殺された。更に、司徒の趙温、太常王偉・衛尉周忠・司隷校尉栄邵らが破れて捕虜になり、李傕は周忠等を処刑しようとしたが、賈詡が「彼等は朝廷の大臣です。殺してはなりません」と諫めたため、中止した。献帝の東帰以降歴史書に名を見ることはない。周忠の子の周暉は、洛陽令であったが董卓が専横をはじめると官を去って帰った。周暉と弟は賓客を好み、江淮間(江水と淮水の間)で盛んになり、馬車は常に百余りが従って出入りした。皇帝が崩御するに及び、周暉は都の情勢不安なことを聞き、周忠に会いに行ったところ、董卓は兵に命じ周暉と弟を殺した。
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