呂齮(りょぎ、生没年不詳)は、秦末の武将で、南陽郡の郡守をつとめた。『史記』高祖本紀、曹相国世家、樊酈滕灌列伝では「南陽郡守の齮」とのみ述べられている。紀元前207年夏6月に、楚の別働隊の総大将である劉邦は韓の張良を参謀に迎えて、陽城を攻略した。呂齮は陽城の東方で劉邦の武将曹参と戦って、敗れて宛に逃れた。劉邦は宛を放棄してそのまま関中に進撃しようとしたが、張良に諫められて未明に宛に迫ってこれを三重に包囲した。これを見た呂齮は、驚愕して自害しようとしたが、舎人の陳恢に諫められて取りやめた。陳恢は劉邦の陣営に訪れて、和議を申し渡して、劉邦はこれを受け容れたため......
呂齮(りょぎ、生没年不詳)は、秦末の武将で、南陽郡の郡守をつとめた。『史記』高祖本紀、曹相国世家、樊酈滕灌列伝では「南陽郡守の齮」とのみ述べられている。紀元前207年夏6月に、楚の別働隊の総大将である劉邦は韓の張良を参謀に迎えて、陽城を攻略した。呂齮は陽城の東方で劉邦の武将曹参と戦って、敗れて宛に逃れた。劉邦は宛を放棄してそのまま関中に進撃しようとしたが、張良に諫められて未明に宛......