吉田 兼雄(よしだ かねお、宝永2年1月24日(1705年2月17日) - 天明7年8月16日(1787年9月27日))は江戸時代中期の神道家で吉田家当主。父は吉田兼章、子に良倶。幼名は万丸。侍従、右兵衛督、大蔵卿、神祇権大副に任ぜられ、明和7年(1769年)正二位。安永8年(1779年)には光格天皇の諱(兼仁)を避け良延と改める。江戸時代中期、離檀運動や神道宗門設立に向かう運動が盛んになるなか、兼雄は唯一神道(吉田神道)の教腺拡大に努め、近世吉田家中興の祖ともされる。吉田家は、代々の当主が学問を好み、累代の書籍の継承を家学隆盛の礎としており多くの書物を伝......
吉田 兼雄(よしだ かねお、宝永2年1月24日(1705年2月17日) - 天明7年8月16日(1787年9月27日))は江戸時代中期の神道家で吉田家当主。父は吉田兼章、子に良倶。幼名は万丸。侍従、右兵衛督、大蔵卿、神祇権大副に任ぜられ、明和7年(1769年)正二位。安永8年(1779年)には光格天皇の諱(兼仁)を避け良延と改める。江戸時代中期、離檀運動や神道宗門設立に向かう運動......