画像引用元: upload.wikimedia.org史天沢
史 天沢(し てんたく、1202年 - 1275年)は、モンゴル帝国(元朝)に仕えた漢人軍閥の1人である。字は潤和。史秉直の次男で、史天倪の弟。子に史格。華北の漢人軍閥で、父は史秉直といい、真定(河北省正定県付近)地方に勢力を誇った軍閥である。史家は金王朝に仕えていたが、金がモンゴルの攻勢に押された上に内紛を繰り返したことから、1213年にチンギス・カンの有力武将・ムカリに降伏して以後はモンゴルの家臣となった。兄の史天倪と共に各地を転戦して武功を挙げたが、その兄が1225年、金の軍閥である武仙を降伏させた直後、今度は南宋と内通した武仙によって殺害されたため、史天沢は武仙を討って兄の後を継いで都元帥となる。以後は漢人軍閥の重鎮として華北の漢人軍閥を率いて、金討伐でも功績を立てた。モンゴル・南宋戦争が始まると、華北に所領を与えられたクビライと誼を通じた。しかし第4代ハーンであるモンケの時代には、モンケとその党派による漢人排斥の動きなどから弾圧され、不遇であった。モンケの死後、クビライとアリクブケとの間に争いが起こると(アリクブケの乱)、クビライに味方してその擁立に大きく貢献した。1262年2月にはその継承争いの最中に山東地方の漢人軍閥である李璮(りたん)の反乱が起こるが、史天沢はこれに呼応せず、むしろ鎮圧に功績を立てた。李璮討伐のためにモンゴル王族カピチ(親王 哈必赤:ジョチ・カサル家の王族か?)が史天沢は幕僚として扈従しこれを輔佐した。『元史』巻二百六 叛臣列伝の李璮の条によると、李璮が捕縛されて討伐軍の司令であった王族カピチの帳幕の前に引き出されたが、史天沢は「宜しく即ちに之を誅し、以て人心を安んず。」と言って、李璮は直ちに誅殺されたという。クビライが第5代のハーンに即位すると、宰相に任じられて漢人の軍閥解体と華北の再編、漢人の人材推挙やモンゴルの漢化政策などで多くの功績を立てた。1268年から本格的に始まった南宋攻略戦である襄陽の戦いでは、アジュと共に将軍の1人として参戦した。南宋の名将・呂文煥の抵抗には手を焼き、足かけ5年を費やしたが、投石器の攻撃などで襄陽の重要な支城である樊城を陥落させ、そして呂文煥の妻子を使った調略により(呂文煥は襄陽の兵糧問題から妻子を城外に追い出していたが、史天沢はそれを保護していた)、1273年には呂文煥とその軍勢を投降させるという大功を立てた。1274年、クビライより南宋攻略の大
